歴史

 

 

宮本武蔵自筆書状

 

紙本墨書 掛幅装 寛永17年(1640)カ
縦28.0p 横38.6p
松井興長宛

 宮本武蔵が熊本藩家老松井興長に宛てた書状です。文頭で武蔵は、有馬陣中で音信を賜ったお礼を述べています。有馬陣とは、寛永14年(1637年)に起こった島原の乱のことです。武蔵と興長はともに乱鎮圧のため出陣しており、陣中で手紙や贈り物のやり取りをしていたことがわかります。島原の乱後、武蔵は江戸や上方に滞在しますが、寛永17年(1640年)、熊本藩主細川忠利の招きを受け、熊本にやってきます。本状はこのときに書かれたものだと考えられています。書中武蔵は、「少し用事があり、熊本にまかりこしておりますが、しばらく逗留いたしておりますので、ご挨拶にうかがいたく存じます」と述べ、興長に面会を求めています。この書状が書かれたおよそ1ヵ月後、武蔵は熊本藩より7人扶持合力米18石を遣され、熊本に留まることになりました。正保2年(1645年)5月19日武蔵は熊本の地で64年の生涯を閉じています。

 

(釈文)
一筆申上候、有馬陣ニ而ハ
預御使者、殊音信被思召出
処、過當至極奉存候、拙者事
其以後江戸・上方ニ罷有候か今
爰元へ参申儀御不審申可被成候、
少ハ用之儀候へハ罷越候、逗留申候ハゝ

祗候仕可申上候、恐惶謹言

  七月十八日   玄信(花押)

             宮本武蔵
                二天

     長岡佐渡守様
           人々御中

 

 

 


 

松井康之・興長知行宛行状

 

紙本墨書 竪紙 縦31.7p 横49.4p松井長介宛  慶長7年(1602

 松井康之・興長父子が、家臣の松井長介に宛てたもので、豊後国(現:大分県西国東郡大田村)の内700石の領地を与える旨が記されています。豊前小倉藩主細川氏の家老だった松井氏は、慶長5年(1600)〜寛永9年(1632)まで豊後国木付(現:大分県杵築市)を中心に2万5千9百石余りの領地を与えられていました。松井家は、細川家から与えられた領地を、自分の家臣にも分け与え、松井家当主父子の名で領地の宛行状を発給しました。宛名の松井長介は、別名竹田定勝と言い、松井家の家老をつとめました。

 

(釈文)
田原庄以沓懸村内七百石宛
行訖、永可被知行者也、
仍状如件、

 慶長七年正月 日 佐渡守康之(花押)
              式部少輔 (花押)

        松井長介殿
             進之候

 

 

 

 


 

豊臣秀吉朱印状

 

紙本墨書・折紙(掛幅装)

45.5×横68.0cm

文禄2年(1593)ヵ  正月8日付

 

豊臣秀吉による朝鮮出兵の時の朱印状です。内容は小西摂津守(行長)のもとに鉄炮・長鑓・刀などの武器を届けるように、釜山から行長の陣までの城々の在番衆に命じているものです。

この朱印状は小西行長が先陣を務めた文禄の役(壬辰倭乱)、特に文禄2年(1593)正月8日のものと推定されます。行長は前年6月に平壌に入り、この当時まで平壌城を占拠していましたが、この朱印状が出された前日に明軍に包囲され撤退しています。おそらく秀吉はこのことを知らないままこの朱印状を発給したと考えられます(このとき秀吉は名護屋にいました)。

この当時、八代は小西行長の統治下にありましたが、行長に関する現存資料はあまり残っていません。しかし、近年の麦島城の発掘調査により、行長が朝鮮半島から持ち帰ってきたと考えられる李朝系の瓦が数多く出土しています。こうした点から考えると、この朱印状は八代統治時代の行長の動向と秀吉との繋がり、さらに麦島城との関係を考える上でも貴重な資料といえるでしょう。

 

 

(釈文)

 

小西摂津守かたへ

被下候道具鉄

炮七拾挺・長鑓

百本・刀千腰、城々

町送可相届候、為

使小西与七郎相越候、猶

施薬院・浅野弾正少弼

山中橘内可申候也、

 

  正月八日(秀吉朱印)

 

   従釜山浦

小西摂津守地所迄

城々在番衆中

 

 


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