書状の右から四行目に注目して欲しい。「さつま堺之城」と記される。この一文によって、当時の人々が八代城を、「薩摩境の城」と認識していたことがわかる。 この書状を書いた小笠原忠真は、豊前小倉の藩主で、幼少で熊本藩主になった細川綱利の後見人をつとめていた。忠真は、八代城代の松井興長に対し、「八代城は薩摩境の城なので、彼国において変ったことがあれば、報告しなさい」と指示している。「彼国」とは、もちろん薩摩国のことである。 |
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