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きょうの発言 |
平成17年4月から6月にかけて、熊本日日新聞の夕刊「きょうの発言」コーナーに掲載したのものです。(山ア 摂) |
■平成17年4月1日(第1回) 歴史を秘めた玉手箱 |
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新年度が始まった。大学を卒業して、現在の職場に学芸員として採用され、社会人としての生活を始めてから、今日でちょうど十五年目である。
八代に来たのは、採用試験を受けるために訪れたのが最初で、そのとき八代の駅に降り立った印象は今でも忘れられない。
「駅前は一番賑わっているところ」と信じて疑わなかった私にとって、当時の駅前は、何十年も時間が止まっているかのようなたたずまいだった。たまたま人気のない時間だったこともあるのだろう。何の音も聞こえてこなかったような記憶がある。
それからバスに乗って、市の中心部に向かった。しばらく色さえ付いていなかった(たぶん気分的に)視界に、ようやく色がさしたのは八代城跡を見たときだ。木々の緑とお堀の水。福岡城や佐賀城周辺のような、落ち着いて洗練された感じ。ただの田舎ではない感じ。途端に安心できた。「この街には潤いがある。なんとかやっていけそうだ。」
生まれ育った土地にお城があるということは、なかった土地の人間からすれば、ものすごくうらやましい。お城は、そこが当時の政治の中心で、活発な経済活動があり、多様な文化活動が展開され・・・といった、無尽蔵の歴史を秘めた玉手箱にほかならないからである。
きっと八代生まれの人たちは、本人が意識しているかどうかは別として、その精神形成に少なからず、デンと構えたお城の影響を受けている人が多い、と私は睨んでいる。
あれから、八代駅前もきれいになった。新幹線も開通した。お城に関する新発見も相次いだ。新「八代市」の誕生も間近である。八代の顔としての「八代城」をもっとPRしていきたい。
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■平成17年4月8日(第2回) 博物館とは何ぞや |
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博物館とは何ぞや。そんなことを日ごろ考えている人なんていないだろうから、まずその辺りから攻めてみたい。博物館が依拠する法律に「社会教育法」「博物館法」「文化財保護法」等がある。一般に目にする機会はめったにないので、ここでぜひ紹介させてほしい。
次に挙げる条文は、私たち学芸員が日々唱えているお題目でもある。「博物館法」に定める博物館の目的は、「国民の教育、学術及び文化の発展に寄与すること」。具体的な活動は「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行」うこと、「あわせてこれらの資料に関する調査研究をすること」。
また、「当該博物館の所在地又はその周辺にある文化財保護法の適用を受ける文化財について、解説書又は目録を作成する等一般公衆の当該文化財の利用の便を図」らなければならない。
ここで登場する「文化財保護法」の条文がまた素敵だ。「政府及び地方公共団体」は「文化財がわが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない。」
お堅いイメージの博物館と、楽しげなレクリエーションの組み合わせがいいではないか。ちなみに「仕事や勉学の余暇を利用して、運動、遊戯、娯楽などを行い、心身の疲れをいやすこと」がその意味である。
心身の疲れをいやしながら、わが国の歴史や文化について正しい理解ができる場所。そんなところかな。
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■平成17年4月15日(第3回) 自虐史観 |
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自虐史観。
歴史教科書の検定問題が浮上するたびに耳にするこの言葉が、このところ気になってしかたがなかった。なぜ気になるのかモヤモヤしたまま、この連載で、自分がどうして学芸員になりたいと思ったのか、一回ぐらいは書かなくちゃなあとぼんやり考えていた。
高校三年の時だ。将来つきたい職業の第一希望に「学芸員」と私は確かに書いたのだ。家にあった「世界美術全集」を小さい頃からよく眺めていたこと、歴史のドキュメンタリー番組が好きだったことなど、要因はいろいろあったと思う。
だが、今になって思うと、あの頃もっと別のことを考えていた。自虐史観という言葉が久しぶりにそれを思い出させてくれた。
中学生の頃、戦争関係の本をよく読んだ。とくに沖縄戦のひめゆり学徒隊の記録は、図書館にあるだけ読んだ。当時の私と殆ど同い年の少女たちが、どんなに無残に死んでいかなければならなかったか、いまだに胸が痛んで沖縄には観光にさえ行けそうにない。
そんなこんなで当時、日本はなんて愚かな国だと当時思い込んだのは確かだ。だが、世界に目を向ければ、愚かなのは日本だけではない。だからといって、発生以来、延々と殺し合いを止めない人類の愚かさを考えたら、いくらそんな悲惨な目には会いたくないと思っても、防ぎようがない。
でも、いくら世を憂えても進路は決まらない。そんなとき、ふと、どんな時代、どんな逆境にあっても、人って何か創作活動をしているということに気づいたのだ。すなわち芸術と私たちが呼んでいるものに、人の愚かさを超える偉大さがあるかもしれないと。
今は、もう少し物事には裏も表もあることを学んだが、その期待は今もある。
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■平成17年4月22日(第4回) 6%の確率 |
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先日の地震の際、私は郷里の佐世保にいた。ちょうど墓参の最中だったので、墓石が倒れでもしたら一巻の終わりだった。
お寺にいたのでテレビを見ることができず、どこが震源かわからない。博物館に電話しても通じない。これはひょっとして、約三八六年前の元和五年(一六一九)、八代の麦島城を崩壊させた以来の大地震が、ついに来たか!!!、という心配はほどなく解消されたが、揺れの大小に関わらず、貴重な文化財を保管している博物館として、今いちばん心配なのが地震である。
八代地域で警戒されている布田川日奈久断層は、三十年以内にM7.6クラスの地震が0〜六%の確率で起こる可能性があるそうだ。だが、三十年以内に六%といわれてもピンとこない。
この計算はまったくのでたらめだが、三十年を日数でいうと一万九百五十日、この6%は六百五十七日、つまり一年に二一.九日は地震が起こるかもしれないということなのか?
最近目にしたデータでは、六%の確率とは、五百年に一回という頻度だそうである。あと百十四年は大丈夫、なんて油断は、絶対に禁物である。
阪神大震災から十年、震災後の文化財行政について報告する新聞記事を見た。遺跡のある場所で土木工事を行う際には事前の発掘調査が必要である。非常事態の中、復興事業に伴う発掘調査が理解されるか懸念されたそうだ。ところが、地域の人々は好意的に調査を受け入れ、その成果を新しいまちづくりに生かしてほしいとの声もあがっているそうだ。
地域社会が崩壊の危機に瀕したときこそ、地域の歴史が拠り所となる。そのことを改めて考えさせられる記事だった。守るべき文化財は、博物館の外にもある。
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■平成17年5月6日(第5回) 文化施設の満足度 |
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五月の連休といえば博物館にとっても稼ぎ時。当館は毎年、五月五日のこどもの日を無料公開日にしている。この時期の展覧会だと、こどもの日の入館者が展覧会全体の一割を占めるほどで、入館者数イコール興行成績という図式でいえば、実に頼りになる日だ。
しかし一方で、人気のない展示室の中でこそ、ゆっくりと作品との対話が楽しめるのになあという気がしないでもない。
実際、その点に考慮して、独自の入館方法を取り入れている美術館がある。宮崎駿のアニメで大人気の「三鷹の森ジブリ美術館」で、運営は三鷹市と徳間書店、日本テレビ放送網で構成される「徳間記念アニメーション文化財団」だ。
圧倒的宣伝費と抜群の知名度があってこその話だが、入館は全て予約制で、一日の入場者数を制限している。一人ひとりがゆっくり鑑賞できなくなれば、顧客満足度が下がってしまうからだ。宮崎氏の「こういう美術館にしたい」という理念に基づき、あえて他館にない手法を取る姿勢には、見習うべき点も多い。
ここで「おいおいテーマパークのようなところと文化施設を一緒にしなさんな」と思ってもらえたら嬉しいのだが、すでに国立博物館が独立行政法人化して独立採算制になり、公共施設を民間企業や公益法人、NPOに管理させる「指定管理者制度」の導入が各地で始まっている。目的は施設の効率化と効果的運用、サービスの向上を図るためで、三鷹の事例も指定管理者だ。
これは博物館にとっても、その理念を明確にし実践できるチャンスだと思う。ただし、「行政側が「博物館は採算が取れない」と判断し、縮小や閉館の方向に向かう心配もまた大きいのだが。
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■平成17年5月13日(第6回) 佐世保の海と空 |
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連休中は実家の佐世保に帰省して、今話題の佐世保バーガーをついに食した。八代へ来た当初は、佐世保なんて何もないところだと思っていた。当時の佐世保観光のキャッチフレーズは「うみとそらのあるまち」だったが、海と空しかないのかとあきれたものだ。
しかし、離れて暮らす時間が長くなるほど、望郷の念は深まってくるらしい。あるとき市内の高台から見下ろした佐世保湾の光景はそれはそれは美しいものだった。あの風景とハンバーガーは、自信を持って自慢できると今は思う。
こういう仕事をしていながら、佐世保の歴史をあまり知らないと反省し、帰省の度に市内の史跡を回った時期があった。といっても、佐世保の歴史といえば海軍の歴史だ。海軍鎮守府跡地に立つ海上自衛隊資料館、海軍墓地、浦頭の引揚記念平和資料館等等。
佐世保出身と言えば、世界初の原子力空母エンタープライズ入港時の騒動をよく聞かされる。だが、まだ生まれていなかった私には何の感慨もなく、その船名が第二次世界大戦で日本と戦った空母にちなんでつけられてことを最近知った。
海軍墓地には、ミッドウェー海戦で沈んだ「加賀」や「飛龍」をはじめ、日清戦争以来の戦没者十七万余柱が眠っている。引揚といえば舞鶴だと思っていたが、佐世保にはその三倍の一四〇万人が上陸したそうだ。
数年前、世界最大の空母リンカーン号が入港したというので見物に行った。乗員五千人という巨大な船影の向こうに、真珠湾攻撃の電文「ニイタカヤマノボレ」を発信したという無線塔がかすんで見えた。あれから変わったものは何だろうかと少し複雑な気持ちがした。
佐世保の海と空は、今日も穏やかだろう。近いうちにまた帰ろうと思う。
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■平成17年5月20日(第7回) 子どもの視点 |
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展覧会開催中に寄せられる観覧者の感想は、思いがけない発見がある。励みにもなり、いろいろなことを教えられる。
現在当館で開催中の「印象派と西洋絵画の巨匠」展で、こんな感想があった。「ぼくはえがすきだからブラックやピカソのキュビズムがみれてさいこうです」(八歳)、「ぼくはピカソにあこがれていたので、ピカソやほかの人の絵があってたのしかったです」(十歳)、「えのぬり方やどんな色を使ってぬればいいのか勉強になりました」(十歳)
三十代・子なし・独身の私としては、「自分自身の遺伝子を残すことより、ほかの個体の遺伝子がよりよく育つために働く遺伝子を持った個体もある」という学説(?)を支えにしているので、こうしたひらがなばかりの、しかもはずんだ文字を目にすると、この仕事をやっていてよかったと心から思う。
「子供に興味がもてるような展覧会を催してほしい、例えばマンガ等のイラスト展とか」(四五歳)というのもある。確かにマンガは子供も大好きだろうが、「子供に抽象画はわからない」との思い込みには根拠がないことは、子どもたち自身が証明している。
大人が「子どもにはわかりにくい」と考えがちな歴史の展示も案外と子どもは平気で、的を射た感想を残してくれる。三月に開催した「麦島城の時代」展は、約四百年前に地震で崩壊した八代・麦島城の関係資料を展示したものだったが、「麦島城に入ってみたくなりました。お兄さん(注・子どもたちを案内した学芸員)も入ってみたかったんでしょう?」(小三)。担当学芸員の本音まで突いた鋭い視点だ。
空間や時間を越え、いろいろな世代の意見が飛び交い、出会いのある博物館は私にとって最高に面白い。
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■平成17年5月27日(第8回) 松井文庫 |
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八代で、松浜軒の肥後花菖蒲が見ごろの時期を迎えている。博物館の道向かいに建つ松浜軒は、江戸時代に熊本藩の筆頭家老を務め、八代城に居城した松井家の御茶屋。現在は国の名勝にも指定されている。
ここに、松井家に伝来する古文書約七千点、美術工芸品約四千点を一括して保存管理する財団法人松井文庫がある。昭和五九年、松井家関係者の方々によって設立されたこの財団は、翌六十年に登録博物館の認可を受けた。当館に先立って存在する博物館施設だ。
松井文庫の所蔵品は、設立時から熊本県立美術館が絵画や書跡、陶磁器、能面・能装束、武器・武具を調査。当館では染織品、漆工品、雛人形などを調査した。これだけの広い分野にわたって、さまざまな文物が残されているのは松井文庫の魅力の一つといっていい。
八代の歴史と文化を知る上で、松井家の存在は欠かせない。ということで当博物館には松井文庫所蔵品をお借りして常設展示する一室がある。目下のところ、学芸員としての私が最も力を入れているのは、この部屋の展示をいかに分かりやすく紹介するかということである。
展示替えは年六回。今年は「古典文学」「能面・能装束」「八代城図」「江戸までの道中絵巻」「漆工品」「婚礼調度」を予定している。
作品の大半は江戸時代のもの。現代人になじみのない用途や習慣は説明を添えておかねばならないと、どんどんパネルを増やしていったら、ケース内が説明だらけになってしまった。あるとき、作品とキャプションだけのシンプルな展示にしたら、えらく作品が引き立ってよく見えた。
それでも、説明が多くてわかりやすいという感想もいただく。試行錯誤はもうしばらく続きそうだ。
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■平成17年6月3日(第9回) 城下町 |
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最近、久しぶりに自転車に乗って八代の街を走った。目的は八代城下町に残る史跡をたどるためだ。
八代の経済界は結構ピンチだと聞く。特に中心市街地の商店街は郊外大型店の進出で、危機的状況にある。経済の停滞は、財政縮小、すなわち博物館の事業規模にも大きく影響するので無関心ではいられない。
そんなところへ舞い込んだのが、城下町の歴史を紹介するマップを作り、中心市街地の活性化に役立てようという話。商店街と寺社、商工会議所、TMO(タウンマネジメント機関)、それに市観光課、文化課と博物館が加わることになった。常々、地域の歴史をまちづくりや観光振興に生かせないかともくろんでいる私には、願ってもない話だ。
現在の八代市中心部は、元和八年(一六二二)に完成した八代城の周辺に形成された城下町が土台になっている。城の東から南にかけて薩摩街道が通り、その沿線に配置された商人や職人たちの町が、現在の商店街である。
これらの町の多くが、古くは八代東部山麓の古麓城下にあり、十六世紀末に球磨川河口の麦島城下に移り、そして現在地へと、城とともに移転してきた。現在地が三つめの城下である寺も数多い。
町ごと移転するとか、寺を移すとか、人手も費用もかかったはずである。それをやってきたところに、八代の人々がたくましく、活気に満ち、豊かだった歴史が刻まれているのではないだろうか。
中世、海外貿易を行う船を造ったという場所は「笹堀」(まさに船の形)という地名で残っている。八代の歴史にロマンと誇りを持ってもらえるような、そんな隠れた事柄を豊富に盛り込んだマップを作りたい。完成は六月下旬の予定だ。
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■平成17年6月10日(第10回) フロイスが見た八代 |
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「この地がいかに美しく清らかで、また優雅で豊饒であるかは容易に説明できるものではない」」「まるで日本の自然は、そこに鮮やかな技巧による緞帳を張ったかのようであり」「幾つもの美しい川が流れ、多数の岩魚が満ちあふれている」
これは、天正十五年(一五八七)豊臣秀吉が九州平定の途中、八代の古麓城に滞在したとき、秀吉に面会したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが八代について書き記した文章の一部だ。(フロイス著『日本史』より)
八代はちょっと高い所に上ると山から海まで一望できる。球磨川から八代海へと広がる光景は雄大で、約四百年前、フロイスが見た景色をほうふつとさせる。
古麓城下の発掘調査で、中世の人々が捨てた牡蠣や蛤の貝殻が見つかっている。それらを見て思った。水も空気も今よりきれいだった当時の貝。美味しかっただろうなあ。
この八代の恵まれた自然と、陸海の交通の要所として発展した八代の歴史を集約したようなフロイスの文章を、もっと利用したらいいと思う。例えば新しい八代の玄関口新幹線駅に掲示したら、初めて八代を訪れる人などは、大いに興味を持ってくれるだろう。
自然といえば、八代の干潟は、国際的なシギ・チドリネットワークにも参加し、貴重な自然環境として知られている。
作家開高健が、二十一歳のとき(昭和二六年)、同人誌に発表した『あかでみあ・めらんこりあ』という処女長編は、八代の干潟が舞台だ。氏が実際に八代を訪れたのか、何故八代を選んだのか、どうしても知ることができないのだが、釣り人として知られ、環境保護にも関心のあった氏が、干潟にどんなインスピレーションを受けたのか気になっている。
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■平成17年6月17日(第11回) 松井家10代目に注目 |
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熊本藩の筆頭家老を勤めた松井家歴代の中で、注目している人物がいる。松井家十代目の章之(てるゆき・一八一三〜八七)である。
毎年、多くの観光客を集める松浜軒のお雛様だが、この中に章之夫人の雛がある。夫人は、藩主細川家の縁戚になる下野国(現栃木県)茂木藩主細川家の出身で、藩主直々に勧められた縁談であった。
婚礼後、夫人がはじめて迎える雛祭りのために、一度に五組もの内裏雛が新調された。現在見ることのできる雛がその一部で、章之が夫人をいかに大切にしたかを伝えている。
江戸幕府より百七十三石余りの知行地を京都と大阪に与えられていた松井家は、代替りの時には、江戸へ参府して将軍に拝謁することになっていた。
章之が江戸へ参府した際、お土産として日本橋などで大量に買い求めた印籠や煙草入、あるいは随行した絵師に道中の風景を描かせた絵画作品、また章之自身が記した詳細な道中日記などは、当時の文化や風景を知る上で、特に時代が明確な点で他に類例が少ない。きわめて珍しい資料として、県内外の博物館・美術館から借用依頼が増えている。
このように、現存する資料からは、愛妻家、買い物好き、メモ魔といった人間くさい一面を思い浮かべてしまう章之だが、一方で、横井小楠(一八〇九〜六九)を中心とする「実学党」を激しく排斥した「学校党」のリーダーだった。
他藩での評価の高い小楠を理解しなかった側となれば、現代ではややイメージが悪いかもしれない。だが、幕府から知行地を与えられ、それを誇りとしてきた松井家が反幕に回るなどありえなかっただろう。
いずれにせよ、章之が現代の観光振興や八代のPRに大いに貢献してくれている確かである。
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■平成17年6月24日(第12回) 博物館の評価基準 |
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とある病院の前を通ったら「病院機能評価基準認定、私たちは質の高い医療サービスで地域に貢献します」という大きな看板が掲げてあった。
そういうのを見ると、すぐ「うちもまねしたい」と思ってしまう性質なのだ。博物館業界でも評価基準が云々されて久しいが、まだ暗中模索の段階だ。と思っていたら、そういえば、それに類する基準を八代市博はすでに取得していたことを思い出した。
そういえば、と思い出すあたり、今までそれを積極的にアピールしてこなかったことを反省するのだが、当館は「国宝・重要文化財公開承認施設」である。これが何かを知っている人がどれだけいるだろうか。たぶん、設置者(八代市)の側にもそれを意識している人は少ないと思う。
国宝・重要文化財公開承認施設とは、つまりこうだ。国が指定する国宝や重要文化財を展覧会等で公開するには、開催趣旨や会場図面のほか、監視カメラや消火器の配置図、消防署の意見書などいくつもの書類を揃えて文化庁長官に提出し、公開の許可を受けなければならない。ところが承認施設になると届け出だけでよい。
とくに取り扱いに細心の注意を要するそれらの文化財を展示できる設備と専門スタッフ(文化財の取り扱いに習熟した学芸員)を備え、実績があることなどが条件。当館は平成八年に承認された。全国に博物館は約五千館あるが、承認施設はまだ百四館。熊本県では県立美術館と当館の二館で、九州では十三館、東京都でもわずか九館である。
この連載で、博物館とはどうあるべきかを考えてきたが、承認施設にふさわしい質の高い(いろんな意味で)展示をすること。これ以外にないことをあらためて胸に刻んだ。
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