|
くまもと古美術鑑定団 |
熊本日日新聞の夕刊「くまもと古美術鑑定団」コーナーに掲載したのものを修正したものです。(山ア 摂) |
■第33回<工芸編> 肥後鐔 豪快、洒脱・・・巧みな金工技術 |
|
東京・上野の東京国立博物館を訪れると、常設の金工コーナーに江戸時代の熊本で作られた刀の鐔(つば)が、必ずといっていいほど展示されています。大舞台で熊本の作品が活躍しているのを見るのは、気分がいいものです。
鐔とは、刀の握り手(柄)と刃の間に挟む板状の金具で、これがなければ刀を交えたとき、真っ先に自分の手が切られてしまいます。どんなに強い一撃を受けても壊れない強靭さを求められる実用的な金具ですが、豪快、洒脱、繊細など、さまざまに形容される形と文様で装飾され、わが国の金工技術の巧みさを物語っています。
江戸時代の熊本では、鉄砲鍛冶として加藤家に仕え、よく鍛えられた鉄地に見所のある林又七や、細川家の肥後入国に伴い、八代城へ入った細川三斎(忠興)に伴って来た平田彦三、その弟子西垣勘四郎、彦三の甥志水仁兵衛らを初代とする流派が優れた肥後鐔を数多く生み出しました。林派が得意とした、鉄地に布目状に刻みを入れて金銀を打ち込み定着させる布目象嵌の技術は、肥後象眼として現代にも受け継がれています。
鐔の鑑定は、銘の有無、鉄地の良しあし、細部の加工技術などで判断します。「三階松透鐔」(八代市立博物館蔵、無銘、熊本県指定重要文化財)は、銘はありませんが林又七の作といわれています。ねっとりとした感の鍛えられた鉄地とおおらかな枝ぶりの松に名工の風格が漂っています。切羽台(せっぱだい・刀を通す孔のある部分)の形がやや先の細い卵形になっているものが又七の鐔には多いようです。「菊花透鐔」(八代市立博物館蔵、無銘)は、切羽台の中央がややへこんだ楕円形で、特徴から林二代重光の作ではないかと見ています。
PageTop
|
■第34回<工芸編> 布目象嵌 0.1ミリ間隔で金銀打ち込む |
|
「きんつば」という和菓子があります。漢字で書くと金鐔。小麦粉を練った薄い皮でアンコを包んだもので、中のアンコが透けて見えるのが特徴です。表面に金を被せて立派に見せた鐔に似ているところから、その名があります。
鐔を金で装飾するには、鍍金、象嵌などの技法があります。このうち、象嵌は、「嵌める」という漢字が示すように、ある素材に別の素材を嵌め込む技法全般を指します。
肥後鐔に多く用いられる象嵌は、文様をつける部分に鏨で縦横に刻みを入れてから、金銀を打ち込む技法で、この溝が布目のように見えることから布目象嵌といわれます。溝の間隔は、〇・一ミリしかない細かいもので、このデコボコした面に金銀が食い込んで、下地にしっかりと固定されます。
「桜九曜紋透象嵌鐔」(八代市立博物館蔵、銘「熊府住秀勝」)は、鉄地に細かい唐草文様を金布目象嵌によって表したもので、その緻密さとシャープさに、作者の技術の高さが見てとれます。布目象嵌は、文様以外の部分に残った布目を、あとから潰して消してしまうので、この鐔にも布目跡はほとんど残っていません。その点でも、完成度の高い作品といえます。
一方、布目跡が見えることがかえって見どころとなっている鐔もあります。「勝虫蟹図鐔」(八代市立博物館蔵、無銘)は、蟹の姿を表したものですが、蟹の目と水草の部分にはっきりと布目が残っています。このように象嵌の布目が粗いのは、志水派の鐔に多く見られる特徴です。志水派は、細川家の肥後入国の際、八代城に入った細川三斎に従ってきた志水仁兵衛を初代とする一派で、代々甚吾と名乗り、豪快な作風で知られます。
PageTop
|
■第35回<工芸編> 鐔の色 秘伝の黒錆で腐食を防ぐ |
|
鉄の色といえば、銀色の金属の色が思い浮かぶと思います。しかし、鉄で作られた鐔は、銀色ではなく黒い色をしています。これは何の色なのでしょうか。
通常、鉄は錆びやすく、放っておくと真っ赤に錆びてボロボロになります。鉄が空気中の酸素と結びついて酸化するためで、その色からして赤錆といわれます。
一方、鉄の表面を保護する働きのある黒い錆があります。風雨にさらされる公園や学校の鉄棒が何年も錆びないのは、この黒錆がついていることによります。赤錆に比べ、黒錆は不動態といって分子構造が安定しているので、腐食が進行しにくくなります。
鉄鐔はこの黒錆を人工的につけたもので、その黒い色合いが鑑賞の大きなポイントにもなっています。鐔に黒錆をつけるには、錆出液と呼ばれる溶液を塗って熱を加える工程を何度か繰り返した後、お茶の葉で煮て錆を黒く変色させます。
錆の良しあしを決める錆出液の製造法は秘伝として鐔師の家に伝えられたらしく、江戸時代の史料によれば「せんじ(何かの煎じ液)、白えんしよう(煙硝=硝酸カリウム)、ねずみくそ(鼠の糞)、がにみそ(蟹のはらわた)、あいのうるか(鮎のはらわた)」から作ると記したものもあります。
おそらく、これらに含まれる微量の塩酸や硝酸などが、鉄の黒錆化に影響を及ぼすことを、鐔師たちは長年の知恵と経験から学んでいったのでしょう。
鉄地がよく鍛えられ、古いものほど黒色が深く羊羹のような色になります。それほど古くない鐔の表面は、まだ錆がなじまずザラザラしたような感じが残っています。いくつかの鐔を並べて見比べるとその違いがわかります。
PageTop
|
■第36回<能面編> 小面と曲見 年代示す細かな表現 |
|
能は、南北朝時代から室町時代(十四世紀半ば〜十五世紀前半)にかけて、観阿弥・世阿弥父子によって大成された日本の古典芸能の一つです。台詞(謡)をうたいながら囃子にあわせて舞を舞う歌舞劇で、老若男女、神から鬼まで、いろいろな役が登場します。それらの役に扮するため、面の種類も八十種ほどあります。
面をつけて別の存在になるという行為は、ある種神がかった状態に似ていることから、能面そのものも神聖なものとしてたいへん丁寧に扱われます。もし、能面を拝見する機会があれば、顔の表面に触らないよう気をつけて、耳上の縁の部分(紐孔の所)を両手でつまむようにして持ちます。
「小面」と「曲見」という能面を見ると、どちらが若い女性を表しているかは、一目瞭然でしょう。肌の張りや肌質、目尻や口角の角度が明らかに違います。ほかに、三本真っすぐに揃えられた小面の髪筋と、三段の弧を描いた曲見。直線的に切り取られた小面の瞳(目孔)と、円形に刳り貫かれた曲見の瞳など、細かな違いが見られます。小面は、若く可愛らしい少女を表します。一方、曲見は少しやつれた中年の女性を表します。名前は、しゃくれた顔に由来します。複数の面を見比べながら、その違いを確認していくと個々の面の特徴がよりはっきりと見えてきます。
江戸時代、能は幕府の式楽であったため、将軍や大名家では能役者を抱え、面や装束も数多く揃えていました。熊本藩主細川家や筆頭家老松井家には、今でも多くの能面が伝えられています。
PageTop
|
■第37回<能面編> 目の表現 怒りや悲しみ表す金色 |
|
能面の目は瞳の部分がくり抜かれており、面をつけた人が外を見ることのできる唯一の窓となっています。しかし、この窓はとても小さく、能役者は外の様子がほとんど見えない状態で演技をしなければなりません。能舞台で客席に最も近い所の隅に立っている柱を目付柱といいますが、演者は、この柱の見え方を目安にして、自分の立ち位置を確認しています。
さて、能面の目の表現をいくつかの女面で見ていきましょう。(1)白目の両端に細い墨線を入れたもの(「小面」など)、(2)白目の部分に金泥(金の絵具)を入れた塗ったもの(「泥眼」)、(3)瞳の周辺に鳩目のような丸い金具を入れたもの(「橋姫」など)、(4)眼球全体を金具で表したもの(「般若」など)があります。
(1)は「小面」のほか多くの能面に見られる表現で、目に陰影をつけることで表情をより柔和にしています。「泥眼」は、嫉妬に狂って生霊となった美女を表す面で『源氏物語』の光源氏の愛人六条御息所を主人公にした「葵上」という曲などに用いられます。
「橋姫」は自分を裏切った夫を恨んで呪い殺そうとする「鉄輪(かなわ)」という曲に使われます。「般若」は怒りのあまりついに鬼になってしまった女性を表し「葵上」「道成寺」などに用いられます。
能面の目における金の使用は、その面が尋常ならざる存在であることを示す印の一つで、その分量が増えるほど怒りや悲しみが激しく強いことを表します。舞台上での効果も抜群です。男性を表した面でも同じです。
PageTop
|
■第38回<能面編> 面打師 面裏の焼印で作者を判定 |
|
南北朝時代から室町時代にかけて能が歌舞劇としての形式を整えていくのに従い、用いられる能面もその形が定まっていきました。室町時代後期から江戸時代前期にかけて、現在使われている能面の原型がほぼ出揃ったといわれています。またこのころ、越前出目家、大野出目家、井関家、弟子出目家、近江家など、代々面打を家業とする専門の面打師たちが生まれました。彼らは世襲面打師と呼ばれ、能面制作の主たる担い手となりました。
能面の作者は、面の裏を見ると分かるものがあります。松井文庫に所蔵される「小面」の一つには、額裏に「天下一河内」という文字の丸い焼印があり、世襲面打師の井関家四代・河内大掾家重(一六四五年没)の作であることがわかります。家重の面は、裏面の削り方に特徴があり、目や鼻の窪みにヘリが角張っているものが多く見られます。また、面の向かって右上に菊の花の形をした彫り跡を残していることでも特徴づけられます。
世襲面打師の最大流派の一つ、越前出目家四代目満永の養子で、後に独立して一派を起こした児玉近江満昌(一七〇四年没)は「天下一近江」と「児玉近江」の二つの焼印を用いています。名前に「天下一」を冠することは、文字通り天下唯一の名人ということで、織田信長や豊臣秀吉らが優れた職人に与えたことに始まります。この称号は、天和二年(一六八二)年を境に使用が禁止されたので、「天下一近江」は天和二年以前制作の面、「児玉近江」はそれ以降、亡くなるまでの間に使用された焼印であることがわかります。
PageTop
|
■第39回<能面編> 古い仮面 形式化以前の原型残す |
|
能楽の母体となったのは、すでに平安時代から行われていた猿楽や田楽といった芸能です。猿楽や田楽は、寺社の祭礼などに参加して、楽器を鳴らして踊ったり、滑稽な芸や物真似を演じたりしていました。これに長寿の老人を表した翁の面をつけて天下泰平を祈願する神事などが影響しあって、仮面をつけた劇形態の能が形式を整えていきました。
こうした段階で用いられた古い仮面に、形式化される以前の能面の原型を見ることができますが、熊本県内にも古い仮面が多く残されています。
球磨郡多良木町の最も山深い所にある下槻木の四所神社には、県指定文化財にもなっている美しい女面があります。目尻の長い柔らかな目付きをした面で、四角に切られた目孔や、白目の両端に入れた細い墨線、黒く塗った歯などに、形式化された能面に近い表現がすでに見られますが、中央に分け目のない頭髪の描き方や、口の脇に表した小さな窪み、すなわち笑窪に、古い女面の特徴が表れています。
この笑窪は、女性の神様を表した女神像の顔にも見られるもので、神性つまり神であることを表す印の一つといわれています。女面が女神像を模して作られている、または女性の神様を表そうとしていることなど、女面が発生する過程をうかがわせる表現です。
宇土市にある網田神社にも、小さい笑窪を持った女面が伝わっています。この面には裏に「宇土 文茂作」という文字が刻まれており、地元で制作されたことがわかります。
いずれも室町時代の作と考えられ、これらの地域で当時何らかの神事や芸能が行われていたことを示す貴重な遺品です。
PageTop
|
■第40回<染織編> 能装束 演じる役柄で形や色などに違い |
|
染織品は、文字通り糸を染めたり織ったりして作られたものです。熊本の美術館や博物館で見る機会の多いものに、能装束があります。肥後藩主細川家の永青文庫や筆頭家老松井家の松井文庫には多くの能装束が伝来しているからです。
能装束は能を演じるのに用いられる舞台衣装で、演じる役柄に応じ、形や色、材質、文様の傾向などに違いがあります。例えば、優雅な女性の役には華麗な草花文様が多用されますが、若い役には紅色の入ったもの、年配の役には紅色の入らない装束を用い、これを紅入(いろいり)、紅無(いろなし)といって区別しています。松井文庫に所蔵される「紅萌葱白段替牡丹に桜花車文様唐織」は、若い女性役にふさわしい紅入の装束です。
能装束を含む染織品の名称は、地色・材質・文様・技法・種類の順に記述するのが一般的です。「紅萌葱白段替牡丹に桜花車文様唐織」の場合、紅・萌葱(緑色)・白が段替わりになった「地色」に、牡丹と桜を乗せた花車の「文様」が表された唐織という「種類」であることが分かります。唐織は能装束では女性役の表着に用いるものを指します。工芸品の名称は「長くて分かりづらい」とよくいわれますが、名称だけで作品の姿をイメージできるという長所もあります。
唐織を拡大して見ると、文様部分の横糸が長く渡っており、刺繍のようみ見えますが、これは地を構成する縦糸・横糸とは別に、文様を表す横糸が織り込まれているためで、機織り技術の高度さがうかがえます。
牡丹と桜の花車からなるパターンを繰り返し織り出していますが、色糸の配色を変えたり、左右の見頃で反転したパターンを用いるなど単調に見えない工夫がなされているのも唐織の見どころです。
PageTop
|
■第41回<染織編> 織り方 能装束の雰囲気決める |
|
染織品は縦糸と横糸から構成された織物です。基本的な織り方には、平組織、綾組織、繻子(しゅす)組織、綟(もじれ)組織の四種類があります。
平組織は、縦糸と横糸が一本づつ交互に組み合わされた最もシンプルな織物です。能装束では、武士の役が着用する直垂が平組織の麻地で作られ、型染によって文様が表されています。
綾組織は、縦糸と横糸が交差する点が斜めに表れるのが特徴で、現代のデニム素材もこの綾組織です。能装束では、華やかな女性役の唐織や男性役の厚板が綾組織で、重厚で多彩な文様を織り出すことができます。
繻子組織は、滑らかで光沢があり、能装束では唐織の下に着る縫箔に多用されます。縫箔は、縫い(刺繍)と箔(金銀箔を糊で貼ったもの)で文様を表した優美な装束です。繻子組織に平金糸(和紙に金箔を貼り細断したもの)を織り込んだ「金襴」は、鬼神など力強い役に用いる狩衣に使われます。
綟組織は、隣り合う縦糸が絡み合った織物で、絽や紗などがあります。隙間の多い涼しげな織物で、舞を舞う女役の長絹に用いられます。
役柄に応じて装束が決まっている能装束は、このような織物の特性がその雰囲気を決定する重要な要素となっています。
PageTop
|
■第42回<染織編> 武家の着物 古典文学からの文様 |
|
松井文庫に所蔵される「浅葱絽地杜若文様染縫振袖」は、佐賀藩主鍋島家の家紋である杏葉紋がついていることから、熊本藩主細川家十四代護久に輿入れした宏姫(鍋島斉正の娘)の所持品が、松井家に譲られたものと考えられます。
絽という夏向きの薄手の絹地に、裏地をつけた袷仕立ての振袖で、杜若の咲く水辺の風景が刺繍や染めで表されています。江戸時代、袷は四月一日から五月四日、九月一日から八日までの期間に着用されました。涼しげな色や材質、今の季節にあった文様といい、ちょうど旧暦の四月下旬にあたる今頃の時期にふさわしい一枚です。
杜若の文様は、必ず橋と共に表されます。これは、古くから杜若の名所として名高い三河国(現在の愛知県)にある八橋(水辺に八つの橋があることからの地名)の風景を表しているからです。
この八橋は、平安時代の歌人在原業平をモデルにしたといわれる『伊勢物語』の舞台としても有名です。都を離れ、東国への旅に出た主人公一行は、八橋の見事な杜若に感嘆し、「かきつばた」の五文字を使って「からごろもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」つまり「着慣れた唐衣のように肌になじんだ妻を都に置いて、遠く旅する身の上はなんと寂しいことか」という歌を詠み、皆で涙にくれたといいます。
当時の人々は、書物や絵画、能を通じて古典文学と非常に親しんでいました。武家の女性が身につけた着物には、古典文学をイメージさせる文様が多く用いられており、彼女たちの好みや生活ぶりをうかがわせます。
PageTop
|
■第43回<染織編> 肖像画の着物 時代のファッションを反映 |
|
本来消耗品である染織品は、古いものが残りにくい宿命を負っています。八代・松井文庫の例をあげれば、能装束や女性の着物など江戸時代の染織品が比較的数多く残されていますが、江戸時代中期(十八世紀)に遡る作品はほとんどありません。唯一の例に、寛永十三年(一六三六)松井家二代目興長(一五八二〜一六六一)が将軍徳川家光より拝領した葵紋つきの陣羽織があります。このように将軍や主君より拝領した品である場合は、名誉の品として大切に保存されるので、現在まで残る例が稀にあります。
さて、実物以外で染織品の参考資料となるものに、肖像画があります。像主が身につけている着物は、その人が生きた時代のファッションをある程度反映しています。
細川家初代藤孝の夫人光寿院(一五四四〜一六一八)の肖像画は、三ツ巴紋を散らした白い着物に、茶色の打掛を羽織った姿で描かれています。一方、松井家初代康之の夫人自得院(一五六〇〜一六四一)の肖像画は、細い縦縞の入った茶色の着物に、同じく三ツ巴紋の入った白い打掛を羽織っています。ゆったりと仕立てられた裾周りや細い帯は、実際に残っている他の着物の例と共通します。
光寿院は、将軍足利義晴の側近で幼少の藤孝を養育した沼田光兼の娘。自得院は、光寿院の兄光長の娘で、光寿院の姪にあたります。二人の着物につけられている三ツ巴紋は沼田家の家紋で、沼田家の出身であることを主張しているように見えます。家紋の形状は、古いものほど黒い部分が細長く、空間が大きいのが特徴です。二人の肖像画における三ツ家紋を比べると、先に亡くなった光寿院のものが古様を示しています。
PageTop
|