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八代市の文化財


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八代探訪
 やつしろゆるっとネットに平成26年5月〜11月、掲載したものを修正したものです。(山ア 摂)
■八代探訪vol.2 伝えたい、日本美術の素晴らしさ
 文化財の仕事をしていると「山アさんは歴女ですか?」とよく聞かれます。実は、日本美術の素晴らしさを知りたい・伝えたいと思って学芸員になったので、イヤイヤ「美」女ですが、と答えたいのをぐっとこらえ。。。
 さて、平成26年(2014)春、市博物館で「京都相国寺と金閣・銀閣の名宝展」が開催されました。京都の格式の高いお寺の敷居はそれはそれは高く、九州の県庁所在地でもない小さな市の博物館に宝物を貸してくれるなんてありえないこと。奇跡のような展覧会が実現したのは、2011年、相国寺と茶道資料館で、八代城主・松井家の名品展が行われたのがきっかけです。能面・能装束、茶道具や千利休の絶筆など展示され、観覧者は2万人を越えたそうです。
 そもそも、相国寺を建てた足利義満は能の大成者である観阿弥・世阿弥を応援し、能を発展させた将軍。能の発祥地ともいえる場所から、松井家の能を紹介したいとわざわざ望まれたのはどういうわけだろうと調べたところ、1964年(昭和39年)、京都国立博物館で「能面と能装束」という特別展が開催され、松井家の能装束13点が出品されたことがわかりました。
 1964年といえば、東京オリンピックがあった年。日本の誇る能という芸術を世界に知らしめた展覧会でした。そんな重要な展覧会で出品総数160点のほぼ一割が八代からだったとは!!! 松井家の能コレクションはそんなにすごかったのかと再認識した次第です。
 松井家だけでなく、八代城下の人たちも能に親しみ、その水準はかなり高かったそう。奇跡のような展覧会は、能の名声が高かった八代だからこそ、招きよせた先人たちからの贈り物といえます。日本美術の最高峰に触れていただくことができて、本当にうれしかったです。
(「京都相国寺と金閣・銀閣の名宝展」平成26年4月25日〜6月1日 八代市立博物館)

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■八代探vol.5 城下町マップ 売れてます
 市文化課(現文化振興課)在籍中、八代城とその周辺の城下町、つまり現在の中心市街地の200年前の様子を描いた絵図(財団法人松井文庫所蔵)を掲載した「城下町マップ」を発行しました。有料にもかかわらず好調な売れ行きでした。
 この絵図には、小さな書き込みがたくさんあり、現在の本町アーケードのほぼ中央にあるボンネ靴店の前あたりは「七日町」、また、そこから少し西よりの焼肉店「炎」の前は「九日町」という書き込みがあります。
 八代城が今の場所ではなく、古麓にあった16世紀、当時の八代城主相良家中で書かれた日記によれば、古麓城下には一日市、七日市、九日市と呼ばれる町があったことがわかっています。文字通り、その日に市が立っていたことからの町名でしょう。つまり、古麓城下にあった町が、お城の移転とともに麦島城下、そして現在地へと移転してきたという動かぬ証拠にほかなりません。
 「町ごと移転するとか、寺を移すとか、人手も費用もかかったはずである。それをやってきたところに、八代の人々がたくましく、活気に満ち、豊かだった歴史が刻まれているのではないだろうか。中世、海外貿易を行う船を造ったという場所は「笹堀」(まさに船の形)という地名で残っている。八代の歴史にロマンと誇りを持ってもらえるような、そんな隠れた事柄を豊富に盛り込んだマップを作りたい。」と熊日新聞に書いたのが平成17年6月のこと。
 このとき作った「歴史と文化の散歩道」マップが、中心市街地活性化基本計画認定の決め手になったと聞いています。

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■八代探訪vol.8 ウットリ、ホレボレ 本蝶蕪の青貝細工
 毎年11月、まちなかには妙見祭の笠鉾が飾られます。笠鉾が9基もあること!八代城下町を通っていた薩摩街道沿いの町々から出されていること!江戸時代以来、1つも欠けずに残っていること!そして、本来なら美術館のガラスケースに入れて鑑賞されるべき、江戸時代の趣向と贅を凝らした貴重な装飾が“おしげもなく”往来に展示されていること! こんなお宝を持ったまちなかが他にあるでしょうか!!と、つい熱くなってしまうくらい笠鉾はすばらしい存在です。どの笠鉾もそれぞれ見どころがありますが、まずは私自身にとっても思い出深い笠鉾「本蝶蕪」の青貝細工を紹介してみたいと思います。
 「本蝶蕪」は本町から出される笠鉾で、「本」と「蝶」で本町を表し、「本町の蕪=株があがる」で本町の商売繁盛を願った作り物です。青貝細工による装飾は下笠の軒下にあり、町内ではこの部分を「伊達板」と呼んでおられます。青貝細工とは、鮑貝等の裏側を薄く削ったものを文様の形に切り抜いて貼り付け、漆を塗って研ぎ出した螺鈿(らでん)細工の一種で、貝片の裏に銀箔を貼ったり、赤や黄色の色を塗ったりした、いわゆる伏彩色(ふせざいしき)の技法が使われているのが特徴です。本蝶蕪の伊達板も、貝本来の色と伏彩色を使い分け、桜・牡丹・菊・梅・椿・楓が巧みに表現されています。技術力といい、表現力といい、美しさといい、見るたびに感嘆せずにはいられない作品です。
 こうした青貝細工は、幕末から明治にかけて長崎で盛んに作られ、ヨーロッパ向けの輸出品として人気がありましたが、いつから、どこで、制作されるようになったのか不明な部分も多いそう。本蝶蕪の伊達板は、文化7年(1810)と記された箱に入っており、その年に出来上がったことがわかりますが、これがなんと、現時点で制作年代がわかる青貝細工では最古の作例です。つまり、わが国の青貝細工の発展を知る上で基準作となるたいへん貴重な作品だということ。
 それが何故わかったのか。平成11年12月、当時、私は市博物館で松井文庫が所蔵する婚礼調度を調査しており、専門的助言を仰ぐためお招きしていた国立歴史民俗博物館の日高薫先生は漆工史とくに海外輸出漆器研究の第一人者でいらっしゃいました。平成4年から11年にかけて笠鉾基本調査と修復に携わった市文化課の原田氏や、町内のご協力を得て、日高先生にこの伊達板を見ていただいたところ、上記のことがわかり、このニュースは当時、熊日新聞の一面に掲載されました。
 笠鉾の展示期間は、ぜひ、その美しさにウットリ、ホレボレしてください。

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■八代探訪vol.11 自慢の雛です。松浜軒の美人雛!
 お雛祭りの時期になると紹介したいのが貞操院(ていそういん)様のこと。八代城主松井家10代目章之(てるゆき)公の夫人で琴姫という方です。法号(戒名)を「貞操院賢室慈誠」といいます。
 「貞操院様御婚礼一式」(熊本大学付属図書館所蔵松井家文書)という史料によれば、章之公と琴姫の結婚に際し、細川家と松井家の家政担当者の間で次のようなやり取りがありました。「細川の殿様から勧められた縁談だが琴姫様はお年増でバツイチである」「えーっ、こっちは初婚だぞ」「章之様だっていい年だろう、選り好みしている場合か」「だって年増だぞ」「そっちもたいした美男子じゃないくせに」「そうだな、藩主の夫人になってもいいような姫様だし」「お年増だけど美人だし」「お家のためには有難き仕合せってことで」という赤裸々な議論の末、ようやくまとまった縁談でした。
 琴姫は、熊本藩主細川家の初代幽斎の息子興元を初代とする茂木細川家(下野国谷田部藩主)の姫で、母方の祖母は谷田部藩主細川興徳に嫁いだ熊本藩主細川重賢の娘、父方の祖母は細川家の分家で宇土支藩主細川興文の娘、という目眩がするほどの光輝くお姫様でした。天保9年(1838)閏4月9日、江戸を出発した琴姫は、5月27日、熊本花畑屋敷へ到着。6月15日、熊本を出発し、翌日八代へ到着。城下の御客屋(現在の桜十字八代リハビリテーション病院が建っているところにあった)で着替えをした後、総勢150人規模の婚礼行列を整えて八代城へ入城。吉日を選んで、8月13日、八代城で婚礼の儀が行われています。
 松浜軒には、琴姫が嫁いできた年の翌年3月に京都から取り寄せた大型の雛人形が5組も、さらに、その翌年、琴姫が産んだ長女加屋姫の初節句のために取り寄せた雛人形が3組も残っています。江戸からはるばる八代へやって来た琴姫が寂しい思いをしないようにとの章之公の気配りなのでしょう。
 この時期、全国各地でお雛祭りが行われ、私も写真や実物でたくさんの雛人形を見てきましたが、琴姫のお雛様が一番美人です。よそに比べると数が少ない、とか、盛り上がりに欠ける、といった声も聞こえてきますが、こんな素敵な由来を持ったお雛様がほかにあるでしょうか。
 さて、結婚時、年増すぎると心配された琴姫(当時26歳のはず)ですが、実は私の中で、年齢詐称疑惑が浮上中。興味が尽きないお姫様です。

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