番号 |
56 |
作者名 |
村上狂二 |
作者名フリガナ |
ムラカミキョウジ |
生没年 |
1898〜1971 |
作品名 |
花籠図屏風 |
作品名フリガナ |
ハナカゴズビョウブ |
制作年 |
昭和12年(1937) |
品質・技法・形状 |
紙本著色・屏風装 |
法量 |
135.4×126.2 |
作家・作品解説 |
村上狂児(明治31年1月18日〜昭和46年7月3日) 本名一儀(かずのり)。菊池郡龍門村大字龍門2271に父助次、母フエの三男に生まれる。家は代々苗字帯刀を許された大庄屋であったが、破産、後熊本市小幡町に本籍を移す。 奔放自由な気性から、自ら「狂児」と名乗って号とした。狂爾、狂二。 8歳年長の姉ヒトがその才能を愛して、親代わりに面倒をみた。ヒトは八代に嫁し、狂二は明治38年から八代の代陽小学校に通い、八代商業学校に進む。商業学校4年生在学中に南の島沖縄に憧れ、那覇商業学校に転じた。 八代時代に、終生親交を結んだ西村光弘らと知り合う。 明治末年のこの頃、日本全国にも珍しかった西洋画の油絵の具など一式を、姉ヒトが買い与えた。これが、画人狂二を生んだきっかけとなった。狂二は、若くして死んだこの姉を敬慕してやまず、姉の影響を語っていた。 この姉は女傑で、料亭の女将として名を売り、仁侠の徒の面倒もよくみた。後に、狂二が、歌人宗不旱と無二の親友となったが、不旱もまた、侠客であったからだ。 大正4年頃、上京、川端画学校に入り藤島武二に師事、のち津田青楓に、強引に弟子となって日本画を学び、青楓塾の塾頭となる。 昭和2年熊本市手取本町に九州でもっとも早く絵画研究所を設立、文化人たちが多く集まった。 昭和14年県立熊本商業学校に美術教師として迎えられ、当時としては時代の先端をゆく商業デザイン科を開く。生徒に、禁じられていた映画観賞を勧めるなどの親分肌の豪放磊落な性格と教えぶりは今に多くの逸話を残している。 戦後は、熊本市内のいくつかの高校で教鞭を取った。 木彫家、村上一光の父でもある。 (出水 晃) 「八代に生きた画家たち」展より |
数量 |
2曲1隻 |
備考 |
館蔵品目録(一)P16−45 賛文落款「有神画 昭和丁丑 新春 梅軒顕」/朱文方印「梅軒倣號春風」3.9×3.9(p)/落款「狂二写」/白文方印「狂二」1.4×1.4(p)/白文方印「ョ(ヵ)是□眞」1.4×1.4(p) |
分類名 |
美術:近代以前:絵画 |
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