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 未来の森ミュージアム YATSUSHIRO MUNICIPAL MUSEUM
 
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八代市の文化財
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第2常設展示室

松井家の人々
初代 康之 やすゆき
 松井家が八代城主となったのは、二代目興長の代からで、初代康之は八代にやって来ることなくその生涯を終えています。しかし、康之は松井家の基礎を築いた人物として、八代とは無関係ではありません。
 
 康之は、天文19年(1550)に山城国(現在の京都府)で生まれました。松井家は、もともと室町幕府の足利将軍家に仕える家で、京都に住んでいました。仕えていた将軍足利義輝が、永禄の変(永禄8年・1565)によって殺害されてしまうと、主人を失った康之は、同じく足利将軍家に仕えていた細川藤孝(幽斎)と行動を共にするようになり、その後家臣(家老)となったのでした。
 戦国時代細川家は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、丹後国を与えられ、戦国武将に成長します。細川家の家老となった康之には、丹後国松倉城(現在の京都府熊野郡(久美浜町)が預けられました。康之は家老として細川家を支えるとともに、戦場では備頭として細川軍の先鋒を務めました。その働きぶりに感心した豊臣秀吉は、康之を石見半国18万石の大名にとりたてたいと申し出ます。しかし、康之は細川家に仕えることを希望しこれを辞退しました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、細川家は徳川方に付き、康之は九州の関ヶ原と呼ばれる石垣原合戦に出陣し、徳川方の勝利に貢献しました。戦後細川家は、豊前・豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)39万石余りの大名となり、松井康之には豊後国木付(杵築)城が預けられ、2万5千石という大名並の領地が与えられたのでした。慶長16年(1611)家督を息子興長に譲った康之は、翌17年(1612)豊前小倉で病死しました。享年63歳でした。

康之肖像(松井文庫所蔵)

康之夫人・自得院肖像(八代・春光寺所蔵)

興之肖像(久美浜・宝泉寺所蔵)
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2代 興長 おきなが
 興長は、康之の二男として、天正10年(1582)丹後国・久美浜で生まれました。文禄2年(1593)兄興之が朝鮮出兵で戦死したため、松井家の後継ぎとなりました。父康之とともに細川家に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、藩主細川忠興に従い、徳川方として出陣しました。慶長16年(1611)父康之が隠居すると、松井家の家督を相続し、豊後木付(杵築)城を預かりました。
 
 寛永9年(1632)、細川家が豊前・豊後から肥後熊本に国替になると、興長には玉名・合志郡の内に3万石が与えられました。
 寛永13年(1636)、興長は江戸城普請で細川家の惣奉行を務めました。その働き振りに感心した将軍家光は、背中に葵の紋の入った陣羽織を与えました。この陣羽織は現存しており、肖像画の中の興長も着用しています。
 寛永14年(1637)、島原の乱が起こると、藩主忠利の命により、派兵の手配、幕府や他藩との交渉に奔走し、翌年の原城の戦いでは、自ら3,700余りの兵を率いて出陣しました。
 正保2年(1645)に八代城主だった細川忠興(三斎)が亡くなると、藩主光尚の希望で、正保3年(1646)より、興長が八代城を預かることになりました。以後、江戸時代が終わるまで代々松井家が八代城主を務めました。
 興長は、慶長5年(1600)の19歳での初陣以来、80歳で亡くなるまでの62年間、細川忠興、忠利、光尚、綱利の4代の主君に仕え、長年にわたって細川藩を支えたのでした。

興長肖像(松井文庫所蔵)
興長夫人・古保肖像(八代・春光寺所蔵)
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3代 寄之 よりゆき
 寄之は、元和2年(1616)細川忠興の六男として生まれました。元和7年(1621)、松井興長に男子がいなかったため、松井家の養子となりました。寛永14年(1637)の島原の乱では、父興長とともに出陣し、翌年2月の原城の戦いで細川軍先鋒隊の指揮をとり、城乗り一番乗りに貢献しました。その功績により、寄之には、猴々緋(黒味を帯びた真紅色)鍬形の差物が与えられました。この差物は細川忠利の旗印として使用されたものですが、以後松井家当主を示す旗印となりました。寄之の肖像画には、この鍬形が描かれています。
 寄之は寛永11年(1634)より家老を務めており、同17年(1640)に若年寄となり、国内にあって藩政に従事しました。寛文元年(1661)父興長が亡くなると、家督を相続し、八代城主となりました。
 寄之は寛文6年(1666)に51歳で、亡くなりました。


寄之肖像(松井文庫所蔵)
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4代 直之 なおゆき
 直之は、寛永15年(1638)寄之の長男として生まれました。寛文元年(1661)祖父興長が没すると、家老職につき、藩政にたずさわるようになりました。さらに、寛文6年(1666)父寄之が没すると、八代城主となりました。
 直之の細川藩での役割は、祖父興長・父寄之の跡を引き継ぎ、若き藩主細川綱利を支えることでした。当時藩の財政はたいへん困窮しており、その立て直しは、祖父と父が積み残した問題でもありました。父の死後、筆頭家老となった直之は、細川藩の財政再建に着手し、天和3年(1683)に知行割替を行うなど、財政の立て直しに努め、成果をあげました。
 元禄元年(1688)、直之は母崇芳院のために松浜軒を建て、同5年(1692)、55歳で亡くなりました。

直之肖像(松井文庫所蔵)
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5代 寿之 ひさゆき
 寿之は、寛文8年(1668)直之の嫡男として生まれました。元禄5年(1692)父直之が没すると、家督を相続して八代城主となりました。寿之が八代城主を務めた時代は、5代将軍綱吉の元禄時代であり、徳川幕府の安定期でした。
 元禄13年(1700)寿之の弟祐之は二千石を賜り、15年(1702)家老職に任ぜられ、二千石を加増されました。ここに祐之を初代とする松井家の分家古城家が誕生しました。
 寿之は23年間八代城主を務めた後、正徳4年(1714)病気を理由に隠居します。隠居料千石を拝領して、家督を息子の豊之(11歳)に譲りました。隠居料をいただき家督を息子に譲るという家督相続の形式は、以後松井家において代々引き継がれることとなりました。
 肖像画に硯箱や見台が描かれるように、寿之は、和歌や茶の湯を嗜む文化人でもあり、松井家には寿之の書いた和歌が今もなお残されています。
 寿之は、延享2年(1745)78歳で亡くなりました。

寿之肖像(松井文庫所蔵)
6代 豊之 とよゆき
 豊之は、享保4年(1704)寿之の二男として生まれました。長男克之が早世したため、松井家の跡継ぎとなりました。正徳4年(1714)父寿之が病気を理由に隠居したため、11歳で家督を相続しました。以後、53年という長きにわたって、八代城主を務めるとともに、細川藩の家老として、細川宣紀・宗孝・重賢の三代の藩主に仕えました。
 豊之の時代は、田畑の荒廃や税収の減少による財政危機が深刻化しており、幕府や諸藩が改革に乗り出した時代でした。
 8代将軍吉宗は享保の改革を行い、細川藩主重賢は宝暦の改革を行いました。藩主の指導のもとに、藩政改革が実施され、新しい人材が登用される中、筆頭家老松井家のあり方は、初代康之や2代興長の頃とは違ったものになっていたのかもしれません。
 明和3年(1766)隠居を許された豊之は、隠居料千石を賜り、家督を息子営之に譲りました。明和8年(1771)、松井豊之は68歳で亡くなりました。



豊之肖像(松井文庫所蔵)
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7代 営之 ためゆき
 営之は、元文2年(1737)豊之の長男として生まれました。宝暦3年(1753)藩主細川重賢の命により政事見習いとなりました。明和3年(1766)父豊之が隠居すると家督を相続し、八代城主となりました。
 営之の時代は、田沼意次時代から松平定信の寛政の改革に至る時代です。天明の大飢饉が起こり、肥後国内でも打ちこわしが発生するなど、幕藩体制が動揺し始めた時期でした。
 文化元年(1804)隠居を許され、家督を息子徴之に譲りました。文化5年(1808)、営之は72歳で亡くなりました。

営之肖像(松井文庫所蔵)
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8代 徴之 あきゆき
 徴之は、明和3年(1766)営之の長男として生まれました。天明3年(1783)政事見習を命じられ、同8年(1788)家老職につきました。文化元年(1804)父営之が隠居すると、家督を相続し、八代城主になりました。
 徴之の跡継ぎである存之が、文化7年(1810)19歳で没したため、松井家の分家古城家から督之を養子に迎えました。文化13年(1816)隠居が許されると、養子督之に家督を譲りました。文政9年(1826)、徴之は61歳で亡くなりました。

 

徴之肖像(松井文庫所蔵)
 存之は、寛政4年(1792)徴之の二男として生まれました。長男唯次郎が産まれてまもなく夭折したため、存之が松井家の跡継ぎとなりました。文化4年(1807)国政見習となり、翌5年(1808)近江国大溝藩分部家から妻として恵茂を迎え、徴之の後継者として順調な成長ぶりをみせました。ところが、家督相続を目前に控えた文化7年(1810)、参府のため江戸に上る途中、病に倒れ、旅先で急逝しました。享年19歳でした。
存之肖像(松井文庫所蔵)
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9代 督之 ただゆき
 督之は、寛政8年(1796)古城松井家四代賀之の二男として生まれました。文化9年(1812)松井徴之の養子となり、文化13年(1816)徴之の娘八代と結婚、家督を相続し、八代城主となりました。
 督之は隠居することなく、天保11年(1840)、45歳で亡くなりました。

督之肖像(松井文庫所蔵)
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10代 章之 てるゆき
 章之は、文化10年(1813)徴之の三男として生まれました。長男唯次郎・二男存之が若くして亡くなり、文化9年(1812)に督之が養子して迎えられました。その翌年に章之が生まれたのでした。文政10年(1827)国政見習を命じられ、天保3年(1832)家老職につきました。天保11年(1840)督之が没すると、翌年の天保12年(1841)家督を相続し、八代城主となりました。
 章之が八代城主を務めた19世紀中頃は、黒船の来航、開国、尊王攘夷運動など、幕末の動乱期でした。黒船来航により軍備増強が強いられる中、章之は火器砲術の研究にはげ励み、嘉永6年(1853)には池辺啓太を招いて西洋式の高島流砲術を伝授されました。
 文久3年(1863)隠居し、息子盈之に家督を譲りました。明治3年(1870)松井家が八代城主の任を解かれると、章之は松浜軒に移り住み、明治6年(1873)には植柳村別荘(栽柳園・現在の植柳小学校)に移りました。
 明治20年(1887)、章之は75歳で亡くなりました。

章之肖像(松井文庫所蔵)
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11代 盈之 みつゆき
 盈之は、天保14年(1843)章之の嫡男として生まれました。文久2年(1862)国政見習となり、家老職に就任しました。翌3年(1863)父章之の隠居により、家督を相続、八代城主となりました。明治維新となると、明治2年(1869)版籍奉還し、盈之は熊本藩大参事を命じられました。明治3年(1870)熊本藩大参事を辞し、八代城主の任を解かれました。2代松井興長が正保3年(1646)八代城主となって以来、10代、225年の歴史はここに幕を閉じたのです。
 盈之の時代は、まさに江戸時代が終わり、明治という新しい時代を迎える大転換期でした。
 大正5年(1916)盈之は、74歳で亡くなりました。

盈之肖像(松井文庫所蔵)
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