行ってみよう!八代城
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◆ 「八代城」とは
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「八代城」は、建武元年(1334)ごろから明治3年(1870)にかけて八代地域に築かれた3つの城の総称です。
「ホンモノで体感!行ってみよう!八代城」リーフレット(PDF)
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◆ 古麓城
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初代八代城である「古麓城」は、古麓の山上につくられた山城です。建武元年(1334)に後醍醐天皇の臣・名和義高が八代庄の地頭職を与えられ、八代を支配することになりました。正平3年(1348)には文献上に「八代城」(古麓城)の記述が確認できます。その後、名和氏と相良氏による八代支配をめぐる紛争が繰り広げられ、永正元年(1504)には相良長毎が名和氏を制し古麓城に入城します。
天文2年(1533)、長毎の子義滋は、古麓城に新城を築いて本拠地とし、城下に家臣団を集住させました。これにより、本格的な古麓城下町がつくられていきます。さらに義滋は、八代海にひらく球磨川河口の徳渕の津を利用して対外交易に乗り出しました。以降、天正10年(1582)に島津氏が八代を占拠するまで古麓城を拠点とした相良氏の支配が続きました。
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◆ 麦島城
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2代目八代城である「麦島城」は、戦国時代に小西行長によって築かれた城です。天正16年(1588)に豊臣秀吉から肥後国南部を与えられた小西行長は、古麓城を廃し、徳渕の津近くに石垣をもつ瓦葺の城を築きました。これは、石垣や瓦などをもつ城(織豊系城郭)として九州における早い事例のひとつです。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で小西行長が敗死すると、八代支配は加藤家にうつり、加藤家筆頭家老の加藤正方が麦島城の城主となりました。元和元年(1615)、江戸幕府によって、ひとつの藩にひとつの城を原則とした、いわゆる「元和の一国一城令」が発令されます。肥後国では、宇土城や佐敷城、水俣城などが廃城となる中、麦島城は特例として存続が認められました。しかし、元和5年(1619)の大地震により麦島城は倒壊します。
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◆ 松江城(八代城)
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3代目八代城である「松江城」は、大地震で倒壊した麦島城にかわって、麦島対岸に位置する松江村に新たに築城され、元和8年(1622)に竣工した城です。 加藤家の改易後は、細川三斎(忠興)が隠居城として入城します。三斎の没後、正保3年(1646)には、細川家筆頭家老の松井興長が八代城主となります。以降、明治3(1870)の廃城まで松井家が代々在城し、現在に至ります。
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● 松江城(八代城)について詳しく見てみよう!
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現在、私たちが目にしている石垣は、八代城の本丸だったところで、元和元年(1622)に加藤家筆頭家老の加藤正方が築いたものです。
かつて本丸を囲む内堀のまわりには、二の丸、三の丸、北の丸があり、その外側には出丸がありました。城の規模は南北に811メートル、東西に1,477メートルをもちます。城下町には薩摩街道が通り、前川沿いには惣構えの石垣もありました。八代城は海陸の交通の要衝に立地するとともに堅固な城であったことがわかります。
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■本丸
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八代城には大天守とそれに連結した小天守がありました。大天守は4階建てに地下1階の4層5階構造であったと考えられています。しかし、寛文12年(1672)の落雷により焼失。その後一度も再建されることはありませんでした。
◎本丸の詳しい解説はこちら
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