■八代城の歴史概要
元和5年(1619)の地震により麦島城が崩壊したため、熊本城主加藤忠広が、幕府の許可を得て加藤正方に命じ、同6年から8年にかけて球磨川河口北側の低地にある松江村に築城した城。
寛永9年(1632)加藤氏の改易により熊本城主となった細川忠利の父忠興(三斎)が入城して北の丸を居所として本丸に四男立孝を居住させる。
正保2年(1645)閏5月に立孝(立允)が、続いて12月に忠興が没したため、家老松井(長岡)興長を八代城守衛とし、以後松井氏が在城。実質は城主で大名に準じる扱いを幕府から受けた。
寛文12年(1672)落雷により天守、やぐら、長塀を焼失。さらに寛政9年(1797)落雷により本丸大書院、三階やぐら等を焼失。大書院は再建されるが、天守、やぐらは再建されなかった。
明治3年8月2日熊本藩は松井盈之の八代城守衛を免じ、同4年11月八代県庁を本丸に置くが、同6年1月白川県に合併。廃城後、建物は大書院を除き取り壊される。大書院は代城校という学校に使用された。同13年征西将軍懐良親王を祀る八代宮を本丸に建立することが計画され、大書院は代陽校と名称を改め、移築。同17年八代宮鎮座。その際本丸南側の月見やぐらと舞台脇やぐら間の石垣を取り壊して神橋を架設。同15年北の丸に松井氏歴代当主を祀る松井神社を建立。同19年八代宮に良成親王を配祀。
同23年二の丸馬屋跡に八代郡役所を置く。同30年二の丸郷校伝習堂跡に県立八代中学校(現県立八代高校)を開校。
大正15年郡役所を廃止。昭和4年馬屋跡に八代町外20ケ村公益事業組合会館を建設。城跡は明治・大正時代数回にわたり取り壊され、特に昭和10年頃八代町(当時)の区画整理のため、二の丸・三の丸・出丸の石垣を取り壊し、外堀を埋め立てる。同14年本丸大書院を旧二の丸に移築。
戦後の昭和22年八代総合病院が組合会館を買収。同38年城跡を県史跡に指定。八代高校の移転後、同47年二の丸の学校、会所跡に八代市役所。熊本県総合庁舎を置く。同55年八代総合庁舎、八代総合病院の増改築に際し、二の丸の発掘調査を実施。同54年から57年にかけて本丸石垣の修復工事と発掘調査を実施。同61年2月6日移築保存中の大書院焼失。 |
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■行ってみよう!八代城
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■八代城再現CG
当館の八代城城郭模型を利用して、2017年2月、熊本県立八代工業高等学校のインテリア科の生徒さんたちが八代城再現コンピューターグラフィックを制作されました。ぜひごらんください。
■八代城の移り変わり
■八代城パンフレット(PDF)(友の会制作)
■「なるほど!八代城」解説パンフレット(PDF)
■「麦島城の時代」解説パンフレット(PDF)
■平成28年熊本地震 八代城跡保存修理報告書(八代市文化振興課発行)
■「八代城跡群 古麓城跡 麦島城跡 八代城跡」リーフレット(八代市文化振興課発行)
■八代市文化財調査報告書第51集 八代城跡二の丸(八代市文化振興課発行)
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