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 未来の森ミュージアム YATSUSHIRO MUNICIPAL MUSEUM
 
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八代市の文化財
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第1常設展示室


八代城の移り変わり
 現在、市の中心部にある八代(松江)城は、3代目の八代城です。
 最初の八代城は、古麓の山岳地帯に築かれた山城で古麓(ふるふもと)城といい、2代目は球磨川の河口に築かれた麦島(むぎしま)城です。中世から近世、山城から平城へと大きく移り変わる時期に、それぞれの時代の特色を示す城が存在した八代は、全国でもめずらしい場所といえます。
ふるふもとじょう
古麓城

 南北朝以来八代を治めた名和氏(約150年間)、続く相良氏(約80年間)は、古麓の山岳地帯に山城を築いてここを本拠地としました。
 名和氏時代には、丸山城。飯盛城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城があり、相良氏は新たに鷹峰城・新城を築きました。西側山麓一帯には城下町が作られ、城主と一族の屋敷があった「御内」、役所や近臣の居住地があった「陣内」などの地名が残っています。

■建武の新政―名和氏と八代
 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の隠岐脱出などで功を上げた伯耆(ほうき)国(島根県の一部)の名和長年(なわながとし)は、建武の新政で政治の中心機関である記録所の寄人(よりうど)などの要職に任命され、子の義高(よしたか)も恩賞として八代荘の地頭職(職とは仕事に対する権利のこと)を与えられました。しかし、義高は自ら八代荘には赴任せず、代わりに一族の内河氏を地頭代として派遣しました。
 建武2年(1335)義高は高田郷志紀河内(しきかわち)村(八代市敷川内)を出雲大社(島根県)に、鞍楠村(竜北町)の熊野那智山(和歌山県)に寄進しました。この両所は、当時の八代荘の南と北の境にあたります。また出雲大社も熊野那智山もともに海に関わりのある神社であり、「帆掛け舟」を家紋にする名和氏が海を舞台にした豪族であったことをうかがわせます。
■南北朝時代―懐良親王 かねよし(かねなが)しんのう
 さて、内河義真は八代に赴き、南北朝時代には、肥後国司に任命された菊池武重等と南朝方として行動しました。一方、北朝から肥後守護に任命された少弐頼尚(しょうによりひさ)は、肥後支配を進めるため、芦北荘田河内(たのかわち)関所(八代市)、小河城下(小川町)、八代荘原田(宮原町)等で、内河義真や阿蘇惟澄(あそこれずみ)らと戦っています。その結果、八代荘を南北に分割統治する和談が成立したりしました。
 
 南北朝の対立が続く中で、肥後の情勢に大きな影響を与えたのは、懐良親王(八代宮の祭神)でした。懐良親王は、後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州に向かい、薩摩谷山に滞在の後、正平3年(1348)の正月に宇土の津(港)に上陸しました。正平14年、菊池武光・名和顕興(なわあきおき)らを率いた懐良親王の軍は、少弐頼尚の軍勢と筑後国大保原(福岡県小郡市)で激しく戦います。親王はみずから深手を負いながらも勝利をおさめました。
 同16年には、念願の大宰府攻略を果たし、征西府をおいて九州全体を支配する勢いを示します。九州での劣勢を挽回する切り札として、三代将軍足利義満は、文武に秀でた今川了俊(いまがわりょうしゅん)を九州探題(たんだい)に任じました。了俊は親王を大宰府から追い、南朝の拠点である肥後の攻略に取りかかりました。

 やがて、懐良親王が亡くなり。征西将軍職は良成(よしなり)親王に譲られました。親王を支えた菊池武光も死去、戦況はしだいに南朝に不利になっていきました。永徳元年(1381)には菊池城が攻め落とされ、南朝方は「たけ」の御所から、八代の名和顕興のもとに移ります。宮地や古麓一帯には、懐良親王墓と伝えられる陵墓をはじめ、小袖塚や悟真寺などが、奈良木には親王の御所跡と伝えられる史跡として高田御所跡があります。

 明徳2年(1391)には八代宮地原で合戦が行われ、八丁嶽城(八代市古麓)も陥落、戦いは終わりました。この八代での戦いが南北朝時代を通じて最後の戦いといわれ、ここに九州の南北朝時代が終わりを告げることになりました。肥後における菊池氏や名和氏の実力を認め、肥後支配に利用しようとした了俊は、名和氏が南朝方であったにもかかわらず、八代支配をそのまま認めたのでした。
■戦国時代―名和氏から相良氏へ
 相良(さがら)氏は、もともと遠江(とおとうみ)国相良荘(静岡県)の御家人(武士)で、鎌倉時代に地頭として、球磨郡へ赴き、室町時代には芦北郡を手に入れ、領域の拡大を図りました。
 その頃、八代を支配していた名和氏では内紛が起こり、幼少の幸松丸(顕忠・あきただ)はしばらく球磨郡へ逃れていましたが、相良氏の援助をえて、八代に帰ることができました。顕忠はそのお礼として相良氏に高田350町を与えました。
 これがきっかけとなり、相良氏は八代への進出を企て、名和氏と争いながら、永正元年(1504)ついに名和氏を宇土に追い出し、念願の八代を手に入れました。以後八十余年に及び、相良氏は球磨郡・芦北郡・八代郡の三郡を支配する戦国大名として、八代を拠点に栄えました。
■天下統一への動き―島津氏の肥後支配と秀吉の九州制圧
 天正6年(1578)耳川の合戦で豊後の大友宗麟(おおともそうりん)を破った島津義久は日向国を支配下におさめ、肥後をめざしました。同9年(1581)には大軍で水俣城を攻め、ついに相良義陽(さがらよしひ)を降伏させました。義陽は降伏の証として阿蘇氏の攻撃を命じられ、妙見宮で戦勝祈願をして出陣しましたが、響ヶ原の合戦(豊野村)で甲斐宗雲から奇襲を受けて戦死しました。
 島津氏は相良氏から八代支配を受け継ぎ、ここを拠点にして肥後支配に乗り出しました。肥後の有力武士を次々に降伏させ、豊後まで島津氏の支配が及んでくると、危機を感じた大友宗麟は豊臣秀吉に救援を頼みました。秀吉はこれを好機とばかりに九州に大軍を送り込み、天正15年(1587)には自らも肥後に入り、4月20日には八代に来ています。義久は薩摩に逃れ、川内(鹿児島県)で秀吉に降伏しました。
 
 秀吉は、肥後国の支配を佐々成政(さっさなりまさ)に任せましたが、成政は秀吉の命令を聞かず、強引に検地(土地の調査)を実施したため、肥後の武士たちの反感を買い、一揆がおこりました。これを国衆一揆と言います。秀吉は、一揆の責任は成政にあるとして、摂津尼崎で切腹を命じています。 
 秀吉は、佐々の後の肥後支配を加藤清正と小西行長に任せました。清正が熊本以北と芦北郡を、行長が宇土、益城、八代、天草を支配しました。小西行長は、家臣の小西行重に命じて新たに麦島城(古城町)を築かせ、古麓城に変わって、新しく麦島城の時代が幕を開けます。
トピックス―八代の繁栄 
 キリスト教布教のため日本に来ていた宣教師ルイス=フロイスは、その著書『日本史』のなかで、戦国時代の八代は自然が美しく、清らかで、肥後国で最も栄えた町であると述べています。当時の八代は、古麓を中心とした城下町、宮地を中心とした門前町、徳淵を中心とした港町がミックスした肥後最大の都市として繁栄しました。
 古麓は相良氏家臣団の屋敷群をはじめとして、杭瀬(くいぜ)三町(一日町・七日町・薬や九日町)と呼ばれる商業市町や外交使節の接待などに利用された寺院群が見られました。
 宮地は妙見宮を中心として、薬屋や秤屋(両替商)なども軒を並べていました。妙見祭(旧暦10月18日)も行われ、神楽舞(かぐらまい)や流鏑馬(やぶさめ)も催され、近隣からの見物人で賑わいました。
 徳淵は国内各地はもちろんのこと、琉球や中国からも船がやってきて、交易が行われました。八代からも相良氏の貿易船である「市来丸(いちきまる)」や商人の船などが出ています。弘治元年(1555)には18隻の船団が徳淵から中国に向かおうとして難風に吹き戻されてしまったという記事が『八代日記』に書かれています。
 また、八代は文化も盛えました。連歌では、相良為続(さがらためつぐ)が、当時最高レベルといわれた『新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう)』に入選しました。また、連歌の師を招いて会所(連歌を行う場所)で千句連歌を作るなど、連歌の会が盛んに催されました。
 能楽も盛んで、宗像右衛門太夫という能楽師や町衆がたびたび能を演じています。町衆が能を演じることができるのは、文化的な自覚が高く、自治都市の堺や博多の町人たちと同じレベルにあったことを示すものです。
むぎしまじょう
麦島城

 天正16年(1588)肥後に入った小西行長は、古麓城を廃し、小西行重に命じて、球磨川河口の三角州に麦島城を築かせました。麦島城は、中世以来の貿易港である徳淵の津の南に位置し、海外との貿易や水軍の指揮をとるのに適した場所でした。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで小西氏が滅亡し、八代は加藤清正の支配下に置かれます。同17年(1612)には加藤正方が入城し、元和5年(1619)の大地震で壊れるまでの約31年間存続しました。

■小西行長と麦島城
 天正16年(1588)肥後に入った小西行長は、家臣の小西行重に命じて麦島城を築かせています。麦島城は、球磨川と前川に囲まれた三角州にあり、小西氏の貿易、海上交通、小西水軍の根拠地としての性格をもっていたといわれています。しかし、関ヶ原の戦いで、小西行長は西軍に荷担したため、小西の支配地は没収され、球磨郡を除いて、肥後一国が清正に与えられました。清正は八代支配のため麦島城を修築し、城代を派遣しました。
 
 近年の発掘調査により、麦島城の本丸や二之丸、堀の一部が発見され、これまで謎とされていた麦島城の様子がずいぶん具体的にわかるようになりました。
くわしくはこちら ⇒ 麦島城跡資料館
■加藤氏と八代
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任じられて、江戸幕府を開きました。元和元年(1615)には、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、全国統一を成しとげます。こうして、応仁の乱(1467)以来の戦乱の世は終わりを告げ、幕府を頂点とする強力な支配体制のもとで、諸大名がそれぞれの領国を治める時代が始まりました。
 肥後では、西軍(豊臣方)についた小西行長が敗れ、行長が治めていた緑川より南の肥後半国は、加藤清正に与えられました。清正は、領内の生産力を高めるために、治水工事や新しい田畑の開発に積極的に取り組みましたが、八代周辺では、遥拝堰の設置、新牟田新地の造成、萩原堤の工事などを行いました。
 清正の死後(慶長16年・1611)、幕府は肥後領内にあった南関、阿蘇内牧、矢部、佐敷、水俣、宇土、八代の各城のうち、水俣、宇土、矢部の三城の取り壊しを命じました。このとき、八代麦島城の城代として任命されたのが、加藤右馬允正方です。
 元和元年(1615)、幕府は諸国の大名に対して、一領国内に城は一つとする一国一城令を出しました。この命令によって、さらに南関、内牧、佐敷の各城が取り壊されましたが、八代麦島城は残されました。
 こうして、肥後には一国一城令後も、熊本城と八代城の二城が残されることになったのです。それから5年後の元和5年(1619)、大地震が起こり、麦島城は倒壊してしまいましたが、幕府は新しい城を築くことを許可しました。
 このような特別な例が認められたのは、いったいなぜでしょうか。それは、八代が球磨川と八代海に面した場所にあり、周辺の海上と九州西街道を警備する上で、重要な位置にあったからです。とくにこの時期、幕府はキリスト教弾圧のため、異国船の来航を非常に警戒していたことが、八代城が残された大きな理由として考えられています。 
まつえじょう
松江城
(八代城)

 新しい城は、麦島城の跡ではなく、前川の北岸に建設されました。これが現在も市の中央に城跡を残す八代(松江)城です。その建設には、藩主加藤忠広の命を受けた城代加藤右馬允正方があたり、元和8年(1622)に完成しました。この城と、それをとりまく城下町は、東西1655メートル、南北1037メートルにわたって広がり、のちの細川氏、松井氏時代に受け継がれ、八代地方の政治や経済、文化の中心地となりました。これが、現在の八代市発展の基礎になっているのです。

■細川氏の八代入城
 寛永9年(1632)、加藤氏が改易(かいえき)され、藩主忠広は出羽国庄内(山形県)に配流となり、八代城代正方は浪人の身となります。
 加藤氏の後、肥後に入国したのが細川氏でした。細川忠利が熊本城に入城して藩主となり、その父三斎は八代城に入城しました。
細川氏が八代にやってくるまで
 細川三斎(忠興)は、永禄6年(1563)に京都で生まれました。その頃は戦国時代で、織田信長が勢力を伸ばしていました。三斎の父幽斎(藤孝)は、京都に住み、室町幕府最後の将軍足利義昭に仕えた後、天正元年(1573)頃から織田信長に仕えるようになりました。
 天正8年(1580)、細川幽斎は織田信長から丹後国を与えられ、天正10年(1582)に幽斎が隠居した後は、三斎が跡を継ぎました。丹後は京都府北部の日本海に面したところにあります。
 三斎は父幽斎とともに、数多くの戦に出陣しました。とりわけ慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して東軍勝利に大きく貢献しました。合戦での功績が認められた三斎は、豊前一国と豊後国の一部を領する大名になります。豊前国は現在の福岡県東部と大分県北部のことで、豊後国は大分県のことです。
 三斎は、豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)に城を築き居城としますが、元和6年(1620)に家督を息子の忠利に譲り、中津城(現在の大分県中津市)に隠居しました。
■細川三斎と八代
 三斎には藩主になった忠利を含めて6人の息子がおり、とりわけ四男の立孝と五男の興孝がたいへんかわいがられていたようです。三斎は9万5千石の隠居料の半分を二人に分け与え、八代に住まわせました。さらに八代を熊本から独立させ、立孝を八代の藩主に据えることも考えていたようですが、立孝は31歳という若さで亡くなってしまい、八代支藩の夢は実現しませんでした。
■松井氏と八代
 正保2年(1645)、八代城主の細川三斎が亡くなります。藩内では、三斎の亡くなったあと八代城を誰に守らせるのかということが問題になりました。当時八代には立孝(三斎の四男)の息子宮松が住んでいました。藩主の細川光尚は宮松を宇土に移し、家老の松井興長に八代城を預けることを望みました。徳川幕府もこれを許可し、八代城主の松井氏が誕生しました。
 以後、松井氏は明治3年(1870)に至るまでの220年余りにわたって、八代を治めることになりました。
くわしくはこちら ⇒ 松井家の人々


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