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八代市の文化財
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第1常設展示室


肥後金工解説@
肥後鐔(つば)の四大流派

鐔とは
 鐔は、刀の柄(つか)と鞘(さや)の間に挟み、相手の刃(やいば)から自分の手を守るための実用的な金具です。そのため、簡単には割れない強靭(きょうじん)さが必要です。また、持ち主の趣味(しゅみ)を反映して、多様なデザインと文様で飾られています。

肥後拵(ひごこしらえ)に似合う鐔
 江戸時代、これら刀装具を作る技術は、それぞれの藩の好みに応じて発展していきました。
 細川家でお手本とされたのは、すぐれた武将であり茶人でもあった
細川三斎(1563〜1645)が好んだ刀装のスタイルです。これを肥後拵と呼んでいますが、その特徴は、実戦向きであり、茶の湯の美意識にも通じる風格を備えているという点です。
 例えば、肥後拵は、鐔と栗形(くりがた)の間が、ちょうど三本の指が入る長さになっています。これは刀を抜くときに、容易に鯉口(こいくち)を切る(鞘から刀が抜ける)ための工夫といわれています。肥後鐔は、こうした肥後拵に似合うように、形・デザイン・バランスを考えて作られたものです。

肥後金工四大流派 
 肥後金工を代表するのが、林又七、平田彦三、西垣勘四郎、志水仁兵衛をそれぞれの初代とする4つの流派です。
 肥後金工の発展に大きな影響を与えた細川三斎は、寛永9年(1632)
肥後入国に際し、八代城へ入りましたが、このとき、甲冑(かっちゅう)や鉄砲、塗り物や飾り金具を作る職人を何人も連れてきました。
 その中に平田彦三がいました。西垣勘四郎は彦三の弟子、志水仁兵衛は彦三の甥であり、彼らが住んだのが、はじめ八代であったということは、ここ八代は肥後金工の発展にとって重要な場所であったということができます。

肥後鐔の名工たち
林又七

林派の初代又七の父は、尾張出身の鉄砲鍛冶で、はじめ加藤清正に仕えた。加藤家改易後、浪人するが細川家に抱えられ、鐔工となる。尾張透鐔の影響を受け、さらに京正阿弥の象嵌技術を学んで大成したと伝えられる。鉄色が抜群で羊羹色を呈し、精緻な透彫と布目象嵌に大きな特色がある。

林又七(重吉)---重光(藤平)…重房(藤八)…重次…重久(又平)…

                                  …又八…藤七

平田彦三
初代彦三の父は松本因幡守といい、丹後国で細川家に仕えた。母は小侍従といい、明智光秀の娘玉が細川家に輿入れする際、付人としてお供してきたという。  
彦三は父没後平田姓を名乗り、百石を支給されて藩の金銀貨幣などの鑑定に従事。三斎の命で金工の修業につと努め家業とする。細川家の肥後入国に際しては、三斎に従って八代袋町東角に屋敷を拝領。地金に雅趣があり、覆輪の技術などにすぐれたものがある。

平田彦三…彦三(養子、この代で廃業)

西垣勘四郎
初代勘四郎は、豊前中津生まれ。父は丹波国の神官。平田彦三の門人となり、八代に移住。相伝免許を得て独立し、熊本職人町に移る。
西垣派は、技たく巧みにしてせんさい繊細ゆうび優美なところがある。

西垣勘四郎(吉弘)…勘四郎(永久)…勘四郎(仁蔵)…勘左衛門(吉教)

… 勘左衛門(正久)…四郎作(良久)…勘左衛門(良正)

志水仁兵衛
平田彦三の甥で、彦三没後八代袋町の屋敷を譲り受け、代々八代に住した。二代以降甚吾と名乗る。鉄地に、猛禽・鶏・牛・龍・鯉などを真鍮で大胆に据文象嵌した豪快な作品が特徴。西垣派に入門しているため、透鐔もある。

志水仁兵衛(一幸)…甚五郎(永次)…甚五(永義)…甚吾(永次)…

… (茂永)…甚吾(永典)


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