■平成17年11月29日〜3月26日 |
肥後金工の伝統を受け継ぎ、明治時代八代に住んで活躍した金工師釘谷洞石(1843−1907)を紹介。花瓶や時計の鎖、矢立などにほどこされた繊細は細工が見事です。 |
解説シート
■釘谷洞石と聴石(PDF)
■新資料紹介(PDF)
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釘谷洞石(本名信次)は、幕末の天保14年(1843)熊本北新坪井に生まれました。
熊本城下の坪井一帯には、金工師などの職人が多く住んでおり、そうした環境の中で信次も少年の頃から金工を学び、早くも17歳で独立したといわれています。 |
明治8年(1875)33歳のとき、信次は家族を伴い、八代に移住してきました。その後、明治40年(1907)に亡くなるまで、八代に住んで制作活動を続けました。
廃刀令の後、刀装具の需要が減ったため、装身具や置物、文房具などを作るようになりましたが、明治政府が行った内国勧業博覧会や、海外での万国博覧会など出品して、たびたび賞を受けました。 |
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決して妥協を許さなかったという洞石の作品は、細かいところまで丁寧に作られた繊細なものです。 |
洞石の息子栄太郎は、慶応2年(1866)に生まれ、父とともに八代へ移住。17歳頃から金工を学びはじめ、作品には「聴石」という銘を入れています。
現在でも、妙見祭をにぎわす獅子組の楽隊が使っているラッパは、聴石が作ったものです。
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