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 未来の森ミュージアム YATSUSHIRO MUNICIPAL MUSEUM
 
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第1常設展示室


番号
文書名
宛所
年号
西暦
月日
形態
法量
内容
亡くなった人
死亡年月日
年齢
死因

亡くなった場所
1 土井利勝書状 長岡式部少輔 宛 慶長17年 1612 5月29日付 折紙
35.5 × 51.1
 土井利勝(幕府老中)が松井興長(細川家老)に宛てた手紙です。松井康之(興長の父)の死に対するお悔やみが述べられています。差出人の土井利勝は、将軍徳川秀忠の側近として活躍した人です。 松井康之(細川家老) 慶長17年(1612)1月22日 享年63歳 病死 小倉にて
2 細川忠利書状 長岡式部少輔 宛 寛永元年 1624 5月4日付 折紙
36.5 × 54.2
 細川忠利(豊前小倉藩主)が家老松井興長に宛てた手紙です。亡くなった京都所司代板倉勝重のお悔やみのため、使者の派遣を命じています。また、香典についても触れられていて、他の大名と同じ程度にするようにと申し送っています。 板倉勝重(京都所司代) 寛永元年(1624)4月29日 享年80歳 病死 京都にて
3 細川綱利書状 長岡佐渡守外3名 宛 万治元年 1657 1月28日付 折紙
40.0 × 54.5
 細川綱利(熊本藩主)が四人の家老に宛てた手紙です。家老の米田是季が病死したので、家督を息子の米田助右衛門に相続させるように命じています。 米田是季(細川家老) 万治元年(1658)1月8日 享年73歳 病死 熊本にて
4 細川忠利書状 長岡式部少輔外1名 宛     8月29日付 折紙
35.6 × 50.4
 細川忠利(豊前小倉藩主)が家老の松井興長らに送った手紙で、病死した魚住加助の子供の処遇について書かれています。加助の息子は幼少であるが、300石を遣わし、15歳の娘に対しても、便宜を図るように申し送っています。加助は、長年にわたって細川家に仕えた忠臣です。このため、忠利は遺された子供たちの処遇に気を配ったのでしょう。 魚住加助(細川家臣)        
5 細川忠利書状 長岡佐渡守外2名 宛 寛永9年 1632 1月24日付 切紙
16.6 × 41.3
 細川忠利(豊前小倉藩主)が三人の家老に宛てた手紙です。将軍徳川秀忠の病状は悪化しており、今月中には大事に至る(死亡する)であろうと伝えています。秀忠が亡くなったのは、寛永9年1月24日で、この手紙の日付と一致します。よって、秀忠が亡くなる直前に書かれた手紙であることがわかります。 徳川秀忠(第2代将軍) 寛永9年(1632)1月24日 享年54歳 病死 江戸にて
6 細川忠利自筆書状 長岡さと 宛 寛永11年 1634 2月23日付 折紙
31.8 × 50.5
 細川忠利(熊本藩主)が家老の松井興長に宛てた手紙で、長崎奉行の竹中重義が切腹して果てたことを伝えています。豊後府内藩主の竹中重義は、寛永6年(1629)から長崎奉行を務めていましたが、職務上の不正を訴えられ、寛永10年(1633)2月に罷免され、翌年切腹を命じられたのでした。 竹中重義(長崎奉行) 寛永11年(1634)2月22日   切腹 江戸にて
7 細川忠利書状 松井佐渡外1名 宛 慶長15年 1610 9月13日付 折紙
34.1 × 48.8
 細川忠利が家老の松井康之らに宛てた手紙です。忠利の祖父幽斎死去のお悔やみとして、将軍徳川秀忠より飛脚を賜ったことを伝えています。 細川幽斎(細川家初代) 慶長15年(1610)8月20日 77歳 病死 京都にて
8 細川綱利書状 長岡佐渡外3名 宛 寛文2年 1662 5月16日付 折紙
40.6 × 55.0
 細川綱利(熊本藩主)が四人の家老に宛てた手紙で、家老の有吉英安が療治の甲斐なく死亡したことを伝えています。26歳の若さで死亡した英安に、綱利は同情を寄せるとともに、主人を失った有吉家の家臣たちに動揺しないようにと申し送っています。 有吉英安(細川家老) 寛文2年(1662)5月11日 享年26歳 病死 京都にて
9 細川忠利書状 長岡佐渡守 宛 寛永11年 1634 7月12日付 継紙
15.5 × 46.1 + 10.0
 細川忠利(熊本藩主)が家老の松井寄之に宛てた手紙で、美作国(岡山)津山藩主森忠政の死を伝えています。忠政は将軍家光の上洛に従い京都に赴き、この時の食事が原因で急死したといいます。書中には、7月5日に京都で発病(霍乱)したことが記されています。 森 忠政(津山藩主) 寛永11年(1634)7月7日 65歳 急死 京都にて
10 細川忠利書状 長岡佐渡外2名 宛 寛永9年 1632 1月20日付 折紙
31.7 × 48.8
 細川忠利(豊前小倉藩主)が三人の家老に宛てた手紙です。病床にある将軍徳川秀忠の回復は難しく、近日中に大事に至る(死亡する)であろうと伝えています。この手紙が書かれた四日後の1月24日に秀忠は亡くなりました。 徳川秀忠(第2代将軍) 寛永9年(1632)1月24日 54歳 病死 江戸にて
11 細川忠利書状 長岡佐渡 宛 寛永11年 1634 2月23日付 継紙
18.3 × 19.9 + 50.7 + 46.2
 細川忠利(熊本藩主)が家老の松井興長に宛てた手紙で、長崎奉行の竹中重義が切腹して果てたことを伝えています。豊後府内藩主の竹中重義は、寛永6年(1629)から長崎奉行を務めていましたが、職務上の不正を訴えられ、寛永10年(1633)2月に罷免され、翌年切腹を命じられたのでした。 竹中重義(長崎奉行) 寛永11年(1634)2月22日   切腹 江戸にて
12 細川忠利書状 長岡佐渡外2名 宛 寛永16年 1639 4月24日付 継紙
14.7 × 44.0 + 43.5 + 43.5 + 3.4
 細川忠利(熊本藩主)が三人の家老に宛てた手紙です。細川家臣川村猪右衛門とその息子に切腹を命じたものです。切腹となった原因は不明ですが、父親の罪に対し、その子も同罪ということで、父子ともに切腹が命じられています。 川村猪右衛門とその息子 寛永16年(1639)   切腹  


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